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歴史

歴史

先史時代

  • 大邱は、琴湖江(クムホガン)と新川(シンチョン)に囲まれた肥沃な土地を中心に、住みやすい生活環境と恵まれた自然環境のなか、独特の文化を花咲かせました。

    大邱地域における先史時代の空白期とされていた旧石器・新石器時代を解き明かす考古学的成果が月城洞(ウォルソンドン)及び西辺洞(ソビョンドン)の遺跡などで確認され、旧石器時代だった約2万年前から大邱に人が住んでいたことがわかりました。

    櫛目文土器(西辺洞)
  • また、支石墓や琵琶形銅剣、無地土器といった青銅器時代の遺跡も多く発見され、大邱が当時から自然に恵まれ、交通の要であったことを物語っています。特に、青銅器時代の墓である支石墓は、独立する前(第二次世界大戦終結)まで、大邱駅付近、達成(タルソン)公園付近、東南の鳳山洞(ポンサンドン)、大鳳洞(テボンドン)から寿城(スソン)まで立ち並んでいましたが、市街地の拡大に伴って徐々に減り、今ではほとんど見られなくなってしまいました。これらは、支石墓をつくることのできた当時の勢力集団の政治、社会像、生活ぶりを示しています。

    上洞支石墓

原三国・三国時代

  • こうした大邱地域の青銅器社会は、初期の鉄器文化の影響を受けました。飛山洞(ピサンドン)の細形銅剣(国宝第137号)をはじめ、晩村洞(マンチョンドン)や坪里洞(ピョンリドン)などから出土した青銅鏡や銅戈といった様々な青銅器が、当時の大邱の社会変化を示しています。青銅器は儀式用・装飾用に用いられるようになり、実用的な道具や農機具には鉄器が用いられるようになりました。

    紀元前1世紀頃、大邱には現在の達成土城を中心とした達句伐(タルグボル)国があったと推測されています。『三国史記』には、新羅沾解尼師今15年(261)に達伐城を築いたという記録があり、新羅に属する大きな村に発展したとみられます。

    住宅街が形成された現代では、三国が確立した4世紀頃の痕跡はほとんど見られませんが、日本統治時代まで飛山洞と内唐洞(ネダンドン)一帯に三国時代の古墳87基が残っていました。これらの古墳から出土した金銅冠や金製の耳飾りといった華やかな遺物は、 様式が慶州(キョンジュ)のものと類似しており、大邱地域の中心集団の墓だったことが伺えます。他にも不老洞(プルノドン)古墳群や鳩岩洞(クアムドン)古墳群、城山里(ソンサンリ)古墳群などがあることから、新羅に統合されるまで大邱地域には複数の政治体があったと推定されます。

    第37号墳出土金銅冠

統一新羅時代

  • 新羅による三国統一後の神文王9年(689)、新羅の都を慶州から達句伐に移そうという動きがあったほど、大邱は地政学的に重要な地域でした。また、新羅の五岳の中でも八公山(パルゴンサン)を中岳として崇拝していたことなどからも、いかに当時の大邱が重要視されていたかがわかります。

    新羅の行政体制「郡県体制」の下、大邱は喟火(ウィファ)郡と達句火(タルグファ)県に分かれていましたが、景徳王16年(757)に喟火県が寿城郡に、達句火県が大邱県に改称され、このとき初めて「大邱(当時は大丘)」という地名が史料に登場します。

高麗時代

  • 後三国時代、王建と甄萱が首都慶州を手に入れようと八公山で「公山戦闘」を繰り広げました。これは、大邱が新羅末期までも王京である慶州と地方を結ぶ軍事・交通の要衝であったことを物語っています。

    高麗初期の大邱地域は、寿城郡、大丘県、解顔(ヘアン)県に分かれ、大丘県は寿城郡に、解顔県は獐山(チャンサン)郡に属していました。その後、仁宗21年(1143)に大丘県に県令官が派遣され、次第にその地位が認められるようになりました。

    武臣政権期に全国的に民乱が起きたとき、大邱はその中心地の一つとなりました。モンゴル侵入期には符仁寺(プインサ)に所蔵されていた初雕大蔵経が焼失し、戦乱を避けようとしたところ八公山の公山城で抗争が起きたこともありました。

    王山と申崇謙将軍遺跡

朝鮮時代

  • 朝鮮建国後、大邱は農産物の主要な生産地として人口が徐々に増える一方、嶺南内陸交通の中心地となりました。世宗1年(1419)に大丘県が大丘郡に昇格し、世宗30年(1448)には福祉制度である社倉が全国で初めて設置され、試験的に運営が開始されました。

    世祖12年(1466)には都護府が設置され、軍事的中心地としての役割が増大し、壬辰倭乱(文禄の役)中は大邱で義兵活動が活発に起こりました。

    その後、先祖34年(1601)に慶尚監営が設置され、孝宗9年(1658)には大邱客舎周辺に薬市場が開設、薬令市の始まりとなりました。こうして、大邱は嶺南地域の行政・交通・軍事を総括する中心地域となり、解顔県、河陽(ハヤン)県、慶山(キョンサン)県、寿城(スソン)県、花園(ファウォン)県、河濱(ハビン)県からなる大都市となりました。

    慶尚監営宣化堂(1905年撮影)

近代

  • 大邱は慶尚道の監営所在地として嶺南地方の中枢的機能を担い続け、1895年の地方制度改革により8道から23府への再編に伴い大邱観察府が設置され、傘下の23郡を管轄しました。翌年には全国が13道に再編され、大邱府は大邱郡に改称されましたが、府庁所在地としての管轄区域と地位に変わりはありませんでした。

    乙巳条約により日本の統監府が設置かれ、1906年にはその傘下機関である大邱理事庁が設置されるなど、日本の国権侵奪は加速化しました。1910年には理事庁が廃止され、大邱郡は再び大邱府となり、府制は1945年まで続きました。

    1929年の大邱市街地
  • 1907年、大邱の徐相敦(ソ・サンドン)や金光済(キム・グァンジェ)らが中心となり、失われつつある国権を禁酒・禁煙によって取り戻そうという平和的かつ自発的な国債補償運動を展開、全国的に大きな反響を呼びました。また、徐相日(ソ・サンイル)らは、1915年に嶺南地域の独立闘士とともに朝鮮国権回復団という秘密結社を組織し、大邱地域における3・1万歳独立運動を主導しました。

    1907年、大邱の徐相敦(ソ・サンドン)や金光済(キム・グァンジェ)らが中心となり、失われつつある国権を禁酒・禁煙によって取り戻そうという平和的かつ自発的な国債補償運動を展開、全国的に大きな反響を呼びました。また、徐相日(ソ・サンイル)らは、1915年に嶺南地域の独立闘士とともに朝鮮国権回復団という秘密結社を組織し、大邱地域における3・1万歳独立運動を主導しました。

    大邱師範抗日学生
    の殉節同志追慕碑

現代

  • 1945年8月15日、日本の敗戦により韓国は独立を果たしました。1948年に大韓民国政府が樹立し、翌年施行された地方自治法により大邱府は大邱市に改称されました。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、大邱は数多くの避難者が集まる避難所となる一方、洛東江(ナクドンガン)防御戦線の中心的役割を果たしました。そして、この時期に民族の哀歓を描く創作活動が活発に行われ、現代における大邱の文化芸術の基礎が築かれました。

    李承晩(イ・スンマン)政権の独裁が続くと、1960年2月28日、大邱地域の学生たちは独裁に反対するデモを行いました。この2・28民主運動は、その後の3・15不正選挙糾弾デモとともに4・19革命の導火線となり、韓国の民主化を大きく後押ししました。

    1981年には達城郡の月背邑(ウォルベウプ)、城西邑(ソンソウプ)、公山面(コンサンミョン)、漆谷邑(チルゴクウプ)、慶山郡の安心邑(アンシムウプ)、孤山面(コサンミョン)の編入に伴い大邱直轄市に昇格、1995年には達城郡の編入に伴い大邱広域市となり、行政区域の広域化により嶺南地方の中枢都市としての地位を確立しました。 今や大邱は、FIFAワールドカップ韓日共催(2002年)や夏季ユニバーシアード競技大会(2003年)、世界陸上競技選手権大会(2011年)、世界エネルギー会議(2013年)、世界水フォーラム大会(2015年)といった大規模な国際大会・会議を開催するほどの国際都市に成長しました。

    大邱スタジアム
    (キム・テスク)