Sub-menu area

薬令市観光

SubBanner
Korean traditional medicine is a life science that the people of Korea have ingeniously developed and sublimated into a form most applicable to its people.

薬令市のご紹介

  1. 薬令市観光
  2. 薬令市のご紹介
藥令市のご紹介
藥令市のご紹介

薬令市のご紹介

薬令市は1658年(孝宗9年)頃、韓方薬材収集の効率性を高める国策事業の一貫として、1年に2回(春と秋1ヶ月ずつ)大邱城北門付近の客舎の庭に開設された。1908年に日本によって大邱城壁が撤去されて現在の位置に移転された。

日本による植民地時代には、独立運動に必要な資金調達と連絡の拠点になったため弾圧を受け続けたが、ついに1941年に薬令市が閉鎖され、植民地開放後に薬令市が再開されたものの、1950年に朝鮮戦争によって再び閉止された。朝鮮戦争以降、変貌した姿に形成された韓方薬材常設市場が、現在の南城路一帯の薬廛横丁(韓方薬店横丁)の骨格となった。

現在、薬令市は南城路と東城路3街、鶏山1・2街、寿洞、鐘路2街、壯觀洞、上書洞の一部を含む全長715mの道路に沿って、多くの店が分布しているが、特に、そのうち韓方関係の店舗(約70%∼80%)が密集している所を言う。1988年8月1日に保健社会部(現保健福祉部)から伝統韓方薬市場として指定された当時の面積は324筆地3654.9㎡だったが、関連業者の増加によって次第に圏域が拡大している。大邱薬令市は中央大路と達句伐大路を横切る都心に位置しており、現在運行中の地下鉄1号線と2号線が徒歩2~3分以内にあるので、公共交通機関の利便性も良い。

薬令市の形成に関する諸説

藥令市の形成に関する諸説
大邱薬令市の形成背景については、学者によって様々な見解が提示されてきた。特に、大邱薬令市の形成と関連して、大市説、中国朝貢説、日本輸出説、大同法実施説、自然発生説の五つの説がある。

第一の大邱薬令市の形成契機として、薬材を効果的に採集する目的で、中央と地方政府の計画と支援のもとに国家の政策的な必要により形成されたという大市説は、生産者と仲介商人間の流通を円滑にする卸売り市場としての大市的特性を持っているという説だ。 第二に、慶尚道地方で豊富に産出される薬材も朝貢品の一つとして提供されたという中国朝貢説は、当時の時代的状況に照らし合わせてみた時、薬材を効率的に収集するために開設されたという説である。 第三には日本の朝鮮薬材の需要が増加するにつれて、輸出用薬材の効率的な収集のために大邱薬令市が発達し始めたという日本輸出説は、1943年に発刊された「大邱府史」でもこれを裏付けている。

その他にも貢人に現物の代わりに特産物を代納させた大同法の実施説と、交通および優れた薬材が自生するという地理的利点により自然発生的に薬令市が形成されたという自然発生説がある。このような説を基に考えると、大邱薬令市は国家においてのみならず地域においても非常に重要な役割と機能を担っていたことが伺える。